中森明菜・心の叫び 雑誌「婦人公論」1999年3月22日号 <表紙の人・特別インタビュー> 中森明菜 褒められたくて走り続けた 中森明菜 (なかもり・あきな 歌手・女優) 写真〜中森明菜さん〜(雑誌「婦人公論」1999・3・22号より) No.1 写真〜中森明菜さん〜(雑誌「婦人公論」1999・3・22号より) No.2 私、普通に結婚して子どもを産んで、という生活をしたいってずっと思っていたんです。仕事はいつ辞めてもいいって。だって、褒められたいためだけに仕事をやっているのですから。 歌手になったのは母のため 私は六人きょうだいの、下から二番目。母は宝塚に憧れ、歌手を目指していた人なので、家事をしながらよく鼻歌を歌っていました。それを聞いて私も、自然に口ずさむようになったのです。 お正月など親戚が集まると、私は率先して前に出ていく子でした。親が祖父母や親戚を喜ばせようと、「 誰か何かやりなさい 」 と言うと、他のきょうだいは 「 イヤだ 」 って隠れてしまうのに、「 じゃあ明菜が歌う 」 って出ていく。すると母は「明菜は偉いね。率先して歌って 」 と褒めてくれるのです。目立ちたがりやというか、ある意味で機嫌とりなのかもしれません。 歌がうまいと褒められるのは、むしろ長女のほうで、母はいつも姉に 「 歌手になれ 」 「 美空ひばりさんは九歳で出ていったのだから、おまえは八歳でデビューしなさい 」 と言っていました。でも姉はとても恥ずかしがりやだったので、母も諦めざるをえませんでした。それで次に白羽の矢が立ったのが私だったのです。 母は厳しい先生でした。母が家事をしている側で私が歌っていると、「 そこはビブラートをつけないよ 」 「 お腹から声が出ていない 」 「 もっと感情を込めて 」 などと、よく注意されたものです。母は私の性格を、見抜いていたのでしょうね。私はすごく「褒められたがりや 」 で、怒られたり注意されると、褒められるまで頑張る子だったんです。だからこの子に歌を注意すれば、いくらでもうまくなる。全部直してくれるだろうと踏んでいたのだと思います。実際、母の思惑どおりで、「 そこまではうまかったんだけどね。そこからはね ・・・・・・ 」 などと言われると、悔しくって、今度歌うときは絶対 「 全部上手だったね 」 って言ってもらおうと、一生懸命練習しましたから。 歌に限らず、すべてにおいてそうでした。人に褒められたい。認めてもらいたい。その性格は、今も変わっていません。女優の仕事も、監督さんに褒められたいから一生懸命やっているし、撮影されるときもカメラマンの方に褒められたい。 もちろんファンの方にも褒められたいけど、漠然とした答えではストレスになってしまうんです。テレビの向こうでいくら褒めてくれても、生の声は伝わってこないし、CDやコンサートのチケットがいくら売れても、ただの数字ですから。声も聞こえなければ、よかったよと言ってるときの瞳を見ることもできない。応援していただいても、残念ながらぬくもりを感じることができません。 近くにいる人に 「 よかったよ 」 と声に出してもらったり、頭を撫でてもらいたい。そうすると実感がわいて、もっと頑張ろうという気持ちになる。まるで子どものときのままですね。 私、子どもの頃、すごく体が弱かったんです。寂しがりやになったのは、そのせいかもしれません。きょうだいが多いと母親の愛情が分散しますから、なんとか母の目を自分に向けたかった。触れたかったんです。少しでも褒められることをやれば、母が 「 よかったね 」 と触ってくれる気がして、いつも必死でした。 でも妹に言わせると、私は体が弱かった分、母から大事にされていたそうです。「 いつも明菜が羨ましかった。ずるいよ、病気だからって 」 と、何度か言われたことがあります。そう言われると確かに、小学校の二年生頃まで、私は母と一緒に寝ていました。 それでも足りなかったんでしょうね。病気がちだからみんなに迷惑をかけているという意識を持っていたし、いつも寝ていなければならなかったから、寂しかったんです。みんなと遊べなくて。その寂しさを、母を独占することで埋め合わせようとしていたのかもしれません。 振り返ってみると、私が歌手になったのも、母に褒められたかったからだと思います。母がそれを一番望んでいましたから。相手が求めていることを、先回りしてやってしまう。これは私の根っからの性格のようです。男の人との関係においてもそう。相手が望めば、どんなことでもやってしまう。迷惑をかけるのはいやだから、押し売りはしませんけど、「こうしてほしいんだな」ということを先回りして、なんでもやってあげちゃう。 私、普通に結婚して子どもを産んで、という生活をしたいってずっと思っていたんです。仕事はいつ辞めてもいいって。だって、褒められたいためだけに仕事をやっているわけですから。褒められなかったら、生きていてもしょうがない。だから、まわりの人が褒めてくれないとか、私の存在が迷惑なんだなと思う状況に陥ると、ほんと、死にたくなってしまう・・・・・・。 無念の途中降番 連続ドラマ 『 ボーダー 犯罪心理捜査ファイル 』 でヒロイン役をやらせていただいたのですが、やむを得ぬ事情で途中降番することになりました。私としては、何とか最後までやり通したかったのですが、ドクター・ストップがかかってしまいました。残念でなりません。ご迷惑をおかけした皆さんには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 女優の仕事は、仲間がいて初めて成り立つ仕事。決して一人ではできません。もちろん歌手の仕事も、スタッフやらいろいろな方に支えられてはいますが、ステージに立ったらあくまで一人勝負。本当に一人ぼっちです。 実を言うと、私は仲間が一緒になって同じひとつの目標に向かっていく女優の現場のほうが好きなんです。すごく寂しがり屋ですから。六人きょうだいという、今どき珍しい大家族で育ったことも影響しているかもしれません。一人で考え、一人で決めることは、本当はできないはずなのに、歌手という仕事を選んだために、否応なくそうせざるをえなかった、という感じです。 ドラマも単発のものですと、収録期間が短いので、やっとスタッフの方たちのお名前覚えたかな、あの人はこういう人だって掴みかけたかな、というときに終わってしまいます。すると、寂しい気持ちのほうが大きくなってしまう。それがいやで、わざとみんなとの関係をクールにしてしまうこともあります。あまり仲良くなってしまうと、かえって寂しい思いをしますから。 連続ドラマの場合、三ヶ月くらいみっちり一緒にいるので、ツーカーの仲というか、阿吽のコミュニケーションが生まれます。私、生活があたりまえになっていくことを幸せに思うんです。いつも新しいものとか、どんどん移ろっていく時間の中で生きてきたから、 「 あたりまえの同じような毎日 」 という生活をほとんどしたことがありません。ドラマの仕事をしていると、ちゃんと朝、昼、晩食べるし、あたりまえのサイクルで毎日が流れていく。それがすごく自分に合っていると思うし、好きなんです。しかも気の合う仲間がいっぱいいて、お互い仲良くなれて、そのなかで自分の能力を生かすことができる。ですから、ドラマの仕事をいただくのは、とても嬉しいです。 『 ボーダー 』 では、科学警察研究所から警視庁に派遣されている犯罪心理学研究員、いわゆるプロファイラーの役を演じました。人間は誰しも、自分自身のことさえ本当にはわからないものです。それなのに、どうやって人の心を覗けばいいのだろう。主人公の桐惠も、そのことで悩んでいます。 ドラマで役をいただくと、なぜこの人は怒るのか、なぜこの人は悲しいのか、そのあたりから考えていきます。今回も、桐惠だったらこういう時こう考えるのではないか・・・・・・というふうに思いを巡らしていくのですが、役に入っていく最初の頃はやはり大変でした。桐惠と私は、育ちも人格もぜんぜん違うわけですから。 彼女を演じていて一番大変だったのは、過去に聞いたこともない言葉をたくさん使わなくてはいけないことでした。初めて見る言葉、聞く言葉なので、イントネーションもわからない。それを会議の場面で滔々と喋らなくてはいけない。今まで 「 NGを出さない中森 」 って一応有名だったんですが、第一話の会議の場面では連続八回NGを出してしまいました。ですから、すごいプレッシャー。思わず逃げ出したくなったほどです。 ドラマで役を作っていくのは、いわば客観的な作業ですが、歌手・中森明菜に対しても同じような面があります。素のままの私自身と、歌手・中森明菜は、まったく別人。家に帰ってきたら、本当の自分に戻って、テレビを点けて 「 明菜ちゃん見ようかな 」 って。そのくらい、ぜんぜん別です。テレビを見ながら、「 今日の明菜ちゃんの髪形ヘン、どうしたんだろう 」 「 やめて、そのメイク 」 とか、「 今日はカッコいい 」 とか、平気で思いますもの。他人からは、ちょっとヘンだと思われるかもしれませんけど。 十五歳でオーディション番組に受かった瞬間からそうでした。歌手・中森明菜を、作らなくてはいけないと思ったんです。別の言い方をすると、一番身近にいるファンというか一般の人が自分なんです。こういうタレントがいてくれたら私だったらファンになる、こういう歌手だったらカッコいいのに。そういう感じでしょうか。 それまで歌手で特に誰が好きだとか、誰かのポスターを部屋に貼ったりということもありませんでした。歌手になってからは、「 こんな人がいたらいいのに 」 という歌手像を、見つけながら追いかけていった。最初からはっきり形があるわけではなく、探りながら、見つけながら、明菜ちゃんにやってもらった。こういう服は誰も着ていないから、着てくれればいいなと思ったら、明菜ちゃんに着てもらう。すべて、そんなふうでした。 でもこの感覚は、他人には理解しにくいことかもしれません。本名と芸名が別だったらまだよかったんですが、それも同じですから。まわりのスタッフも混乱してしまうんです。私が中森明菜の一スタッフとして、一プロデューサー、一ディレクターとして言っているのか、歌手・中森明菜が言っているのか、わからなくなってしまう。そのために、どれほど誤解を受けてきたことか。 たとえば 「 中森はこういうふうに売っていきたいので、そういう番組に出るのはよくないです 」 と言うとします。スタッフが言えば、それは方向性だし、明日に向けての売り方の戦略だし、会議で話されてしかるべき内容でしょう。そういうスタンスで客観的に物を言っているつもりなのに、 「 この番組は嫌い 」 と感情で言っているととられてしまう。私はあくまでプロデューサーの立場で、歌手・中森明菜のために言っているつもりなのに、単なるワガママだと思われてしまう。だったら他の人がちゃんと私をプロデュースしてくれるかといったら、誰もしてくれない。だから自分で自分の方向性を切り開いていくしかなかったんです。 日々、闘いでした。いや、闘いどころの次元ではない。特に十代の頃なんて、大の大人を相手にしてるわけですから、なんでこんな子どもに、ましてや女に、こんなことを言われなくてはいけないのかって。まず男性のほうが拒否反応を起こしてしまう。いくら大人だって、できない人はできないし、使えない人は使えない。そういうとき、「 何やってるんですか?」 って言ってしまうから、ナマイキだって叩かれてしまうんですね。 でも、私は決して無意味なワガママは言ってこなかったつもりだし、「 とりあえず、やってみてください 」 とお願いしたことは、後になって納得していただけているはずです。たとえばキャンペーンに行って、大勢の人が集まっているとき、「 ロープを張ってください。そうじゃないと、救急車が来ることになりますよ 」 と言う。やらないと実際そうなるし、やるとキチンと物ごとが進む。でも相手にしたらいくらそのとおりだと了解したとしても、言われること自体が、気分よくないんでしょうね。 私を支える何人もの私 よく思うんです。私って多重人格じゃないかって。自分のなかに幾人もの自分がいて、それぞれが別人格なんです。その各々をちゃんと切っておかないと、ぐじゃぐじゃになってしまいますから、けっこうお互い客観的につきあっています。 たとえば恋人ができると、「 このまま明日まで一緒にいたいのに、明日仕事なんだ。それも、三十分程度のちょっとした打ち合わせ。そのためだけに東京に帰らなくちゃいけないなんて 」 って思っている自分がいる。すると、「 ダメダメ。とりあえず、顔合わせなんだから 」 ・・・・・・。 こういうことは大なり小なり、みなさんもやってるかもしれませんが、私の場合、完全にきちっと分けている。自分で自分に言い聞かせているのでは、まだ弱いんです。つい甘えてしまう。でも他人から言われていると思うと、聞かないわけにはいかない。そういう存在を自分で作るのは、それだけ本来の私が弱いからかもしれません。 体は子どもの頃に比べると、だいぶ強くなりました。相変わらず熱は出しますが、熱が出ても頑張れる。三十九度あってもステージに立つし、昔だったら倒れて救急車を呼んでいるような状態でも仕事をしています。「 辛いよぉ。このままだときっと倒れるから、休んでいいよね 」。そう言おうとすると、別の自分が 「 ダメッ! 明菜ちゃん、お客様が待っているんだから、出なさい。出て倒れたら、そのときのこと 」 と、厳しく言います。もしかしたら、どんなに辛いことがあっても、歌手として、女優として続けてこられたのは、私のなかに何人もの中森明菜が棲んでいるおかげかもしれません。それだけに、今回のリタイアは残念でならないのです。 [終わり] 中森明菜さんは六人きょうだいで、生活は決して楽ではなく、母親が訪問販売をしてまで バレエ学校に通わせてくれていることに感動して、1回もバレエ学校を休まなかったそうです。 頑張ったのでしょうね。お母さんは今はもう、故人です。 常に100点を望む明菜さん。緊張と戦う明菜さん。常に直球勝負の彼女に独特の美学 を感じるのです。 何度騙されてもへこたれない、その心の美しさはスポーツにも通じます。「楽に生きる」ではなく 「苦しくても全力を出す」というのも、ひとつの美学だと共感する方々も多いのです。 〜雑誌「女性自身」2002年6月18日号より〜 音楽プロデューサーの酒井正利さんは、こう語る。 「僕は中森明菜が今、真の復活を遂げつつある、そう思っています。この時代、求められるのは明菜のような、傷ついた心を癒してくれるヒーリング歌手の存在なんです。その意味で、明菜は今、時代に後押しされて再び頭角を現わしつつある。今回もプロモーションビデオの撮り直しなど、また、トラブルが出ましたが、それは、完璧主義の明菜だから起こる、誠実さの表われ。僕はそう理解しているんです」 明菜さんが17歳のとき、書いたエッセイの一部 --<略>幼いころ、空を見上げながら、わた菓子みたいにフワフワしている雲が好きでたまりま せんでした。 私が生まれ育った清瀬は、東京都に属していますが、街中に緑があふれ、 耳をすませば川のせせらぎが聞こえてくるようなところです。 朝、深い眠りから覚めて窓を開けると、澄みきった空気が私の部屋を一杯にします。 雨上がりの朝、小さな葉っぱの上の水滴が、太陽の光を反射してキラキラ輝いているのを 見かけたりもしました。 こんな場面は清瀬の実家では当たり前でした。デビューして都心に 移り住んでいる今の私には、悲しいくらいこういう場面に出会うことがなくなりました。 上を見上げれば、高いビルに囲まれて四角にくぎられた空しか見えません。その空も雲も あまり美しいと感じない私。 小さい子供のころ、つま先立ちで背のびして、両腕を空に向かって精一杯伸ばせば、雲が 取れるのじゃないかと思っていました。 原っぱに立って、じっと待っていれば、いつか雲がまいおりてきて、私を乗せてくれるかもしれない と思っていたあのころ。 雲には夢があります。 わた菓子みたいな形や、人の顔や、動物に見えたり・・・・・。夕焼けに染まって白い雲が紅色 になったり・・・・・。 だんだん私も大人になり雲の本当の意味がわかってしまいましたけど、やっぱり、 雲が大好きです。--<以下略> "It's brand new day Tour 2001" に続き、 "Musica Fiesta Tour 2002" も大成功を収めた中森明菜。 彼女の勢いはもう誰にも 止められない。 ●中森明菜 (なかもり・あきな) ● 本名=同じ 東京都清瀬市中里の自宅で生まれたということになっている。 清瀬で育ったのは間違いない。 6人きょうだいの5番目。(女4人、男2人) 1982年、「スローモーション」でデビュー。2002年に20周年を迎えた。 清瀬の菜の花畑の美しさから『明菜』と名付けられたと言うが定かではない。 本名 中森明菜 生年月日 1965(昭和40)年7月13日 血液型 A型 身長 160cm 体重 43kg B・W・H 80・52・85 足のサイズ 23.5cm 出身地 東京都清瀬市