中森明菜 ただいま!14年の空白…笑顔で振り返る


ただいま!14年の空白…笑顔で振り返る

中森明菜  まさに復活である。歌手中森明菜(37)。大みそか恒例の第53回NHK紅白歌合戦に、14年ぶりに出場する。2年連続で日本レコード大賞を獲得するなど、1980年代、トップスターの座に君臨した。時代の流れの中で空白を生んだが、その経緯はともかくも、表舞台に帰ってくる。素直に「おかえり」である。
(写真=ファンの話題になると穏やかな、いい笑顔になるのが印象的でした。「ファンの人が喜んでくれれば」と繰り返し言うのを聞いてふとシャッターを押す手が止まりました。歌謡曲全盛期に小学生だった私のクラスでは、歌番組翌日の話題は独占だったし。明菜派、聖子派に分かれ真剣にいがみ合う女子もいたんです。そんなことを思い出してしまいました。)



除夜の鐘で実感

 紅白出場が決まった直後に、都内の所属レコード会社でインタビューした。デビュー当時の、お決まりの取材以来、本格的なインタビューはほとんど受けた記憶がない、と関係者はいう。緊張感が漂う中「よろしくお願いします」と、腰を低くした明菜が入ってきた。かつて言われた「ツッパリ」のイメージは、もうない。
 14年ぶり7回目。もちろん、その間も活動は続けていたが、久々の紅白。視聴率は下がり気味とはいえ、いまも1年を締めくくる国民的イベントへの復帰である。さまざまな思いがあるだろう。
 明菜 何のために、このお仕事をしているかっていったら、ファンが喜んでくれるのが本当に第1なので。「やった、明菜。ありがとう。紅白楽しみになった、うれしい」って、喜んでくれる言葉が、私だけでなくスタッフも、うれしいんです。
 最後の出場は88年(昭和63年)の大みそか。当時の出場者で、今年も選ばれたのは、紅組は和田アキ子、石川さゆり、小林幸子の3人。白組は北島三郎、五木ひろし、森進一、谷村新司ら7人。「十年一昔」ではないが、顔触れは変わった。
 明菜 私がたくさん番組に出させていただいている間って、本当にしょっちゅう顔を合わせ、あいさつができて、いろいろとコミュニケーションを取ることができた時代でした。その後(音楽)番組は確かに減って、私もテレビから遠のいていた時代があった。ただでさえ、皆さんとお会いできる機会がなかったので、紅白では「あっ、なんかすごく懐かしい」って、おしゃべりさせていただくんだろうなと思ってます。でも、リハーサルだけなんですよね。五木さんとかおしゃべりできるのは…。本番は、楽屋から何からバシッて分かれちゃうので。緊張すべきなのに、こんなこと言ったら不謹慎なのでしょうが、リハーサル、なんか楽しみです。
 控えめな表現で、丁寧に、謙そんして語る。まるで初出場者のようだが、言外には、トップ歌手として6年連続出場していた当時の経験が、意識せずともにじみ出ている。
 明菜 出させていただいた時もそうでしたけど、紅白が全部終わって、着替えに楽屋に帰ると、もう除夜の鐘が鳴っているんです。皆さんと「あ〜、除夜の鐘ですね。終わりましたね。お疲れさま。お疲れさま」って言ってる時に、やっと紅白に出られたことを実感できるんです。それまでは無我夢中ですから。すべてが終わった後「あっ、今年、出られたんだ」と喜んでいるんだろうなと思います。


日本に衝撃走る

 1980年代。芸能界がもっとも華やかだった時代だろう。山口百恵、松田聖子、ピンク・レディー、キャンディーズ…。明菜は、一時期、その頂点に君臨した。音楽賞レースが激烈を極めた時代に「ミ・アモーレ」(85年)
「DESIRE」(86年)で、2年連続日本レコード大賞を受賞した。歌唱力はもちろん、ダンス、衣装でも魅了した。
 明菜 見ていた方も同じだと思いますけど、現場にいた私も、本当に華やかな時代だったと思います。私だけじゃなくて、皆がすごく忙しそうで、自分をいかにきれいに見せようかって、本当に必死になっていた。自分は、こうやった方がかっこいいと思っても、皆が喜ぶから、を先に考えていた。露出される時間が、今に比べたら本当に多かった時代ですし、見ている人たちのため、を最優先に考えて動かなきゃいけないと思っていました。
 その国民的認知度は、現在の歌姫・浜崎あゆみ(24)をもしのいでいた。本来なら、今も紅白連続出場が不思議ではない歌手の、14年の空白。89年7月の自殺未遂事件が大きかった。23歳の人気歌手が恋人の歌手の自宅マンションで起こした衝撃は、日本中を揺るがせた。その後、事務所独立問題など“負の露出”ばかりが目立った。
 「何を信じればいいの スキャンダルさえ 時代のエクスタシーよ」
 (「DESIRE」)。
 自らのヒット曲の歌詞通り、翻弄(ほんろう)された。14年間の空白は、あまりにも長く、もったいなかった、と言うと、ニコニコ笑って、顔を横に振った。
 明菜 私は、自分自身が紅白やベストテン番組を楽しみにずっと見ていた時の気持ちを絶対に忘れちゃいけない、と思ってきました。「今回はどんな衣装なんだろう」「どんな笑顔見せてくれるのかな」って。同じ立場で見てる方がいるから、その気持ちを絶対に忘れないと。(紅白とかに)出なくなってからは、また見ていた側の当時に戻っただけ。同じように「何してくれるのかな」「あっ、昨年のだれだれさん出ないんだ」なんて、本当に、そう感じていました。自分がそこにいないとか、ここにいられたらとかは、思ってもみなかったですね。


画面の向こうを

 今年、デビュー20周年を迎えた。絶頂の80年代、マイペースの90年代。そして21世紀の今、明菜の言葉、表情には、やさしさがあふれている。  明菜 歌手とかタレントじゃなくても、毎日、人間って学ぶ動物じゃないですか。学ぶのは決して年上からだけじゃない。若い子からもいろんなことを学びます。時代が変われば、自分が味わったことのない現実を、若い子は歩んでいるわけですから。そういう子が新鮮に出す言葉、態度は、すごく勉強になる。いろいろな人の話を聞いて、バランスを取るのが人間に課せられたものだと思うから、若い子だろうが、赤ちゃんだろうが先生です。  浜崎あゆみが司会を務める番組で、つい最近共演した。昭和と平成の歌姫競演と話題になった。明菜は、あゆが“良き時代”を運んできてくれるんじゃないか、と思ったという。
 明菜 違ってたら、すっごく失礼かもしれないけど、今の時代、歌番組に出ても、画面の向こうの人のことを考えてというよりも、自分のことを考えて、自分の売り方だったり、コンセプトに応じてのコメントが中心のように思うんですね。番組を楽しみにしている人たちの中には、例えば「ザ・ベストテン」なんて、私のファンじゃなくても、単純に番組が好きで見てる人っているじゃないですか。(黒柳)徹子さんの雰囲気だったり、番組から出ている温かさや、空気感だったり。私たちは「番組のファン」という方たちを、とっても大事にしてたような気がするんです。あゆみちゃんは、自分はおいても、この番組を好きな人が喜んでくれればいいって思っているように感じた。初めてお会いしたのに、懐かしかった。この子が、またその空気、風を運んでくれるんじゃないか、って。


結婚も役目なら

 アルバム「歌姫ダブル・ディケイド」を4日に発表した。大賞曲はもちろん「TANGO NOIR」「飾りじゃないのよ涙は」など、自らの大ヒットを再アレンジし収録し直した。タンゴ風、ジャズ風などのイントロに「おやっ」と思うが、明菜のにおいは消えていない。「自らの作品は常に乗り超えるもの」が信条で、過去のヒット曲の再レコーディングを拒んできた。今回、20年を締めくくり、新たな1歩を踏み出すために、初めてセルフ・カバーの制作を決断した。
 明菜 歌って、思い出を作ってくれるじゃないですか。時間もそうだし、呼吸、空気、香りも…。その歌に、宝箱のように、ある瞬間までをも、皆さん大事にしまっているんですね。その思い出を、絶対に崩さないというのが大前提。そして、宝箱の中で、宝石が増える形にしたかった。減って足すのではなく、新たに増える以外は絶対に考えられなかった。
 仕事は順調である。来年はオリジナルアルバムはもちろん、全国ツアー、ごぶさたしていた女優業の再開も待っている。
 明菜 「明菜が早く片付かないと、私もいけないよ。どうしてくれるの!」なんて怒るファンの方もいるので(笑い)。皆さんに喜んでもらうのが私の仕事。中森明菜という歌手の、皆さんに喜んでもらえるものの中に、結婚が含まれているのなら、それも“役目”でしょうから(笑い)。
 大みそかは、14年の空白が埋まり、20年が1本の太い線に戻る時だろう。除夜の鐘を、心から満喫して欲しい、と思う。


 ◆中森明菜(なかもり・あきな) 本名同じ。1965年(昭和40年)7月13日、東京都清瀬市生まれ。81年に日本テレビ「スター誕生」に応募し優勝。82年「スローモーション」で歌手デビュー。同年「少女A」がヒット。以後「セカンド・ラブ」「2分の1の神話」「禁区」「北ウイング」などヒットを連発。89年にはアルバム「CrossMyPlam」を全米で発売。85年「愛・旅立ち」で映画初出演。ドラマは87年、TBS「ベスト・フレンド」に初出演。以後、91年にフジテレビ「悪女A・B」、92年には同「素顔のままで」で連続ドラマに初出演。83年から6年連続でNHK紅白歌合戦出場。160センチ。血液型A。


グサりときた「温かい取材」

 取材後記 「20年やってますけど、こんな温かい取材は初めてです」。インタビューを終えた時、明菜さんは、そう言って泣き出しそうな顔になった。
 驚いた。同時に、強烈なジレンマに襲われた。明菜さんの14年間の空白は「スキャンダルさえ、時代のエクスタシー」と確信し、追い続けた、われわれも一要因だったのではないか。
 私も、事件、復帰会見、その後を取材した。インタビュー中「あのころは追いかけ回しまして…」と言うと、明菜さんは顔を振って「いえ、いえ」と笑顔で応じた。
 当然、明菜さんはこの日の私を、初対面の記者と思っただろう。私の方は、1対不特定多数の構図の中で、中森明菜という歌手を追い続けてきたのだ。当時の取材は、記者として当然だったという思いに、明菜さんの「温かい」の言葉がぐさりと刺さった。インタビュー後、なぜか夜の街を歩き続けた。その時の胸の痛みを消す答えは、いまも出ていない。

日刊スポーツ 2002・12・15

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(下) 2002年のNHK「紅白歌合戦」リハーサル1日目での中森明菜さんの表情。
   「飾りじゃないのよ涙は」の音程が合わないで「こんなはずじゃない・・・」と言えるのも、
   かつて無敵の女王だった証。
  


(下)次の日のリハーサルでは見事に「飾りじゃないのよ涙は」を歌って笑顔が戻った。
   40万円のコートで誇りを取り戻せたから?(笑)